そして、2024年
随分と時間が空いてしまった。
一昨年の初冬に4年ぶり二回目の緊急搬送で一命をとりとめ、昨年の初夏あたりに取り敢えず治療が一段落した。 その半年のうち半分以上は入院生活を余儀なくされ、さらにその期間の半分は高熱にうなされロクに生活できたものではなかった。
気づけば一年が過ぎ、その間にかろうじて残されていた糸を手繰り、どうにかこの春から仕事を始める ……というとこれまでニートだったかのようだが、この春からは他所様にも胸を張って紹介できる定職に就く。
2024年に入ってからも色々あったが、ようやく落ち着いた気がするので、整理のためにつらつらと書いてみる (と言いつつすでに面倒になってきた、心情を吐露すれば全て文字に起こして文章にまとめてくれるAIくんはいつ出るだろうか、もうあるかな)。
官庁訪問、その後
直前の記事でも書いた通り、「官庁訪問」という通過儀礼をどうにか遂行した。 更に前の年で感触が良かったデジタル庁は結局箸にも棒にも掛からず、人手不足と外圧を原因とする圧迫感ある面接でサラッと落とされた。 若手というよりは「わかってない」出向者を引いてしまったと強く感じたのを覚えている。
5日間程度の幅が設けてあったかと思うが、大体の機関は2日間の訪問を要求してくるため、最終的に伺うことができたのはデジタル庁以外に2つだけであった (デジタル庁が一日目でお祈り、ほかは二日目に進めた)。 志望者のみになって考えてくれるなら、機関Aの待ち時間で別の期間Bとのリモート面談ができて然るべきと考えていたのだが、流石にそこまで柔軟ではなかった。 もっと人手不足にならないとわからないんだろうと思う。 こればかりは仕方がない。
で、片方の機関で自分の行ないを酷く恥じる場面があった。 これは生涯忘れないだろうと思えるほどの窮地に陥ったというか、相手から見た自分をあまりにも軽く見すぎていた。 もちろんお祈りをいただいた。 この経験はのちの人生に大いに活かせると思う。 とても恥ずかしくて誰にも言えるものではないが、次に同じ状況に陥ることはないと断言できる。 面接担当には最大の怒りを感じるとともに、人生を違えなくて住むように導いてくれて深く感謝している。 あなたは究極にクソな態度で俺を馬鹿にしてきたが、そんなおれはあなた以上にクソで同しようもない馬鹿だった、ありがとう。
最終的に、色々検討したうちのどれでもないところにお誘いをいただき、これを承諾して無事に内定となった (「何事もなかった」というと嘘になるのだが、結果的に内定は得たので奉仕します)。 なにをどうやるのかはまだそこまでわからないが、きっと俺の力は活かせるであろうことは確信できた。 あとはどうにかして組織の力学を理解して動かせるかどうかにかかっている。
退院して、その後
腹に空いた孔も塞がりきらないうちに退院し、皮膚が乗り切らないうちに官庁訪問を終えたが、もちろんその裏で病気療養のあれこれも進んでいた。 オペして二ヶ月経ったくらいからステラーラを入れていたが、次の秋頃にはあ まり効いていないという経過が現れてきた。 ので、次に検討するのはリンヴォック・レミケード・スキリージなどだったが、これまでの履歴と薬品の実績を考慮してレミケードを使うことになった。 故・安倍晋三氏も利用していたというUC向けの生物学的製剤だが、クローンにも使えるし寛解維持にはこれが一番信頼できるということだった。
で、そこからだいたい半年経たないくらいのいま、やっぱり効きが悪いんじゃね?というフェーズが訪れてしまった。 本当に薬が悪いのか、食生活や服薬が不正なのか、おそらく後者なのだが先生判断でレミケードが倍量(上限)になった。 これで効果がないと未知数のスキリージか、おそらく機序を考えると自分には効きにくいリンヴォックかということになり、結構厳しい状況に陥る。
だいぶ追い込まれた形だが、3月には引っ越して独立生計になる予定なので、そこから食生活をすべて自分の管理下に置くことができる。 ここでうまくコントロールして、自身を持って日々を生活および職務遂行ができるようにしていきたい。
業務、その他
退院して3ヶ月ほど様子を見て、秋からリモート業務に復帰するということになっていた。 宣言通り10月は意欲的に色々取り組んで充実していた気がするが、11月以降の記憶があまりない。
定例ミーティングには参加して発言もしていたが、それ以外のコントリビューションが雀の涙程度しかなかった。 それは GitHub における草の生え方を見ても らえばわかるだろう。 ほぼコミットしていない。 あったとしてもローカルの範疇にとどまる程度だった。 かなしい。 雇用主には頭を下げつつ、あと二ヶ月で馬車馬のごとく(あるいは輝ける貢献を置き土産に)働くしかないだろう。 頑張る。
自分以外
次男の新築戸建て、祖母の三周忌などが去年までのイベントで比較的平和であった。
新居を20代のうちに建てるのもすごいが、その原資が夫婦それぞれの両親が1/3ずつというのもすごい。 早く定職について孫でも設けてもらわねば、という両家の圧もあるのはキツいだろうが、どうにか跳ね除けて頑張って欲しい。
祖母は知らぬ間にいなくなり、知らぬ間に壺に詰められ、知らぬ間に墓に入っていた。 どうも、過去数年の記憶がだいたい消えている。 帰省の度につくってくれた懐かしのカレーを思い出す。 顔も声も思い出せるが、いつの間にかいなくなっていて実感が薄いのだけが寂しい気持ちでいる。
で、今年に入ってから色々あった。
- 末弟が被災(ごく軽度)
- 正月に訪れた親類が緊急搬送
- 祖父、急逝
石川に居る弟は地震でかなり揺れたようで、かろうじて家具が倒れる程度の被害で済んだ。 能登半島の根っこ部分あたりにおり、彼自身はなんの支障もないようだ。 学友たちの多くが七尾だの輪島だのということでそちらがてんてこ舞いなのは心配だと云っていた。 それでもときが進んでいくのは酷だなぁと思いつつ、政府施策でGoToなんちゃらを被災地域対象でやる予定があるらしいことを聞いた。 夏前に何処か時間を作って、北陸の味覚を堪能しに旅にでも行こうかとおもう。
親類の緊急搬送は、部位が頭だったことが響いてよくない。 ジジババが一度体調を崩してしまうとあっという間であるのは常だが、幸い今回は帰ってこれた。 こういうことがあると全部リモートでどうにかせいと思ってしまうが、まだそこまで技術が追いついてこないのも確かだ。 来年はどうなるかわからないが、健康に生きつつ安全にも気をつけてほしい。
そうこうしているうちに祖父が急逝した。 これについてとかく言うことはない。 というか文字で残すことはない。 健康だと思って疎んでいたらいきなり死んだ。 実はかなり癌が進行していて、それを伝えると延命措置で入院するとわかっていたからこその態度だったのか。 真相はなにもわからないが、ロクにものも食えない・水も飲めない状態で臓器をやられて死んだ。 最後まで苦しんだ。 戦乱期の飢えや渇きをその身で知る祖父が迎える最期としてはあんまりすぎると思ったが、それは俺が思っただけである。 実際の祖父がどう思っていたのか知るすべはない。
聞いておけばという後悔だけが残っている。
そして、
4月からはそれなりに社会的責任のある職務を遂行していく。 俺にその資格がただしく与えられているのかはともかく、やるべきことをやる。 それはまだはじめは与えられることをこなすだけであろうが、なるべく速やかに昇進して組織に変革 をもたらせるようになりたい。 変革とまではいかずとも、価値ある貢献がつくりだせるように精進する。
他方、自分のライフワークとしてプログラミングは続けていく。 フロントエンドをゆるく追いかけるのもいいし、インフラ周りを頑張るのもいいだろう。 副業はもちろん禁止されているが、係累が俺のアドバイスを受けて行なう分にはなんの問題もない。 そういう建付けで価値を得る未来も残されている。
健康第一で過ごしつつ、人生を次のステージへと進めていけるように、日々を足掻いて過ごしたい。